山岳遭難を知る・防ぐ
知る編
答えてくれた人 長野県警察山岳遭難救助隊・隊長 岸本俊朗さん

■ 遭難発生件数は過去最多に!
——岸本さんは、山岳遭難救助隊に関わって何年になりますか?
「警察官になって今年21年目で、そのうちの17年間は山岳遭難救助に携わってきました。2021年からは山岳遭難救助隊の隊長に任命されて、現在5年目になります」
——近年の山岳遭難で目立った傾向などがあれば、教えてください。
「コロナ禍以降、遭難発生件数は右肩上がりです。特に2023年は302件、2024年は321件と2年連続で過去最多を更新しています。2025年はまだ暫定値ではありますが、昨年の同時期に比べるとすでに30件ほど増えており、昨年をさらに上回る可能性は高いと考えています」
——どのような遭難事故が多いのですか?
「長野県は急峻な山が多いため、『転・滑落』や『転倒』でけがをしたり、亡くなる方が多く、全体のほぼ半数を占めています」
「死者数を見ると、昨年は50人の方が転・滑落や病気などで亡くなっています。長野県内の昨年の交通事故による死者数は57人です。その数と比較するとどれだけ多くの方が山で亡くなっているのかがご理解いただけるのではないでしょうか」
「一方で、けがのない遭難事例も増えています。それは『道迷い』や『疲労』によるもので、転・滑落や転倒に次いで多い遭難原因になっています」

——年齢的な特徴はありますか?
「やはり年齢が高めの方、特に60歳代、70歳代の遭難が増えています。高齢の方の場合、疲労で動けなくなって救助要請をされるという事例が目立ちます。救助後に聞き取り調査をすると、日ごろの運動習慣がほとんどなく、トレーニングをしないまま、山に来ている方も一定数いますね」
■ 自分の実力以上の「無謀な計画」が、遭難を引き起こす
——初心者が遭難しやすいのか。あるいはベテランの遭難も多いのか。登山歴の傾向はありますか?
「経験を積んだ方が挑戦的な登山をして遭難するケースもありますが、件数としては少ないです。どちらかと言えば、登山を始めて数年という方が『これまでよりも難しいルートに行ってみたい』とステップアップをし過ぎて、遭難してしまっているケースが多いのではないか、という印象があります」
「遭難者数が最多の年代は50歳代で、そこに60歳代、70歳代以上を加えると、遭難者全体の約7割を占めます。そのうち、若いころからずっと登山を続けている方は少なく、登山歴3〜4年程度という方が目立ちます。登山を始めた時点ですでにご高齢のため、『元気なうちにたくさんの山に登りたい』という気持ちから、急がされたような登り方になっているのではないでしょうか」
――「次の山、次の山」と急ぐあまり、いつの間にか「自分の実力・経験値」と「登る山のレベル」にギャップが生じてしまっていると?
「そう思います。長野県では10年ほど前に『山のグレーディング』を作成し、県内の主要な登山ルートを体力度と技術的難易度で評価・分類しました。難易度はA~Eの5段階に分かれ、C以上が転・滑落の危険性が特に高いルートです」
「遭難発生件数が多いのは、難易度Bの中で体力度の高いルートと難易度Cのルートです。それらのルートに行くには、ある程度の体力や歩行技術などが必要になります。しかし実際には、充分な経験を積まないままに登っている人が数多くいるのではないかと考えています」
「また、近年では登山アプリを使っている方が大勢いらっしゃいます。アプリで個人が公開されている記録を、どのように自分の登山計画に活用するかにも注意が必要です」
――登山アプリは便利なツールですが、どのような注意点が?
「たとえば、一般的には1泊2日で登るルートでも、アプリ上では『日帰りで登れました』という記録がいくつも出ていることがあります。そうすると、それを読んだ方が『このルートは日帰りで登れるんだ』と思い込んでしまう。しかし、自分で実際に行ってみると想定以上に時間がかかり、途中でバテて動けなくなったり、日没までに下山口にたどり着けないという状況に陥ってしまうことがあります」

――他人の記録を鵜呑みにした結果、自分の実力とはかけ離れた無謀な計画を立ててしまうわけですね。
「登山アプリに公開されている記録を読むことで、直近の山の状況がわかるというメリットはあります。しかし、その情報をいかに自分の計画に取り入れていくか、内容を吟味して、取捨選択していくことが大切だと思います」
――さまざまな情報を参考にしつつ、自分の実力や経験に見合った計画を立てることが重要なんですね。次の「防ぐ編」では、そのあたりのアドバイスもいただければと思います。
防ぐ編
答えてくれた人 長野県警察山岳遭難救助隊・隊長 岸本俊朗さん
■『山のグレーディング』で無理のない計画を
——『知る編』では、自分の実力や経験に見合った登山計画を立てることの重要性について教えていただきました。そのための参考になるのが『山のグレーディング』なんですね。
「そうです。登山を始めたばかりの方は、まずは難易度AかBで、体力度のレベル一で自分が登った山がどのくらいのレベルかを把握して、次に登る山を選んでもらえればと思います」
——転・滑落などの致命的な遭難は、難易度C以上のルートで起きやすいとのことでした。BからCにステップアップする際には、どんなことに注意すれば?
「転・滑落の危険性があるルートでは、登山道を踏み外したり、バランスを崩したりすることで、場合によっては命を失う可能性があるということを、まずは認識していただきたいです。そうした致命的な遭難が起こりやすい場所は、これまでも同様の事故が起こっています。ガイドブックや地形図、過去の事故情報などを参考にして、事前に『ルート上のどこに、どのような危険があるのか』を『予調べ』することも大切です」
「今はさまざまな登山地図アプリがあり、『ルートもコースタイムもアプリで調べれば充分』と考えている登山者も多いのですが、やはり入山前には自分が登るルートの特徴や危険箇所を把握しておいた方が安全登山につながります。たとえば、累積標高差800mの登りが続くことがわかっていれば、休憩をこまめに取り、ペース配分も考えるはずです。ルート上に急傾な岩稜がある場合には、その手前でヘルメットをかぶったり、同行者に注意喚起できるでしょう。事前の『予調べ』があってこそ、連難を防ぐための行動管理ができるのです」

――疲労による遭難を防ぐには、無理のない計画を立てすることはもちろん、行動中にしっかりと水分やエネルギーの補給をすることも大切ですよね。
「おっしゃる通りです。近年は山の上でも気温の高い日が多く、脱水による疲労や熱中症になってしまった方からの救助要請も増えています。脱水に陥る方のほとんどは、充分な量の水を持っていません。本人の体重や行動時間によって、どのぐらいの水分やエネルギーが必要かを求める計算式もあります。適切な量の水分と食料を携行することは、登山の基本となります」
※行動時に必要な水の量(給水量)は、かいた汗の量(脱水量)の70~80%ぐらいだとされています。
脱水量は以下の計算式で求めます。
脱水量 = 体重(kg)× 行動時間(h)× 5(ml)」
(一般的な登山やトレッキングの場合)
たとえば、体重60kgの登山者が6時間行動した場合
脱水量 = 60(kg)× 6(h)× 5(ml)= 1800ml
給水量 = 1800ml × 0.7~0.8 = 1260ml~1440ml
■もしものときに必須の「登山計画書」や「モバイルバッテリー」――遭難対策として、ほかに登山者がやっておくべきことはありますか?
「登山計画書については、提出することはもちろんですが、同行者や家族と共有することも忘れないでいただきたいです。たとえば、グループ登山でメンバーのひとりが大けがを負い、本人の意識がなかったり、会話ができなかったりするときには、同行者に遭難者の緊急連絡先を尋ねます。しかし、同行者はそれらの情報を把握できていないことがほとんどです」
「最近ではSNSなどを通じて知り合いになった方と一緒に登ることも増えているようです。その場合、お互いにニックネームや下の名前で呼び合っているため、フルネームすら知らないということがあります。それでは何かあったときに対応が難しくなるため、計画書の内容をメンバー同士で共有することは徹底してほしいですね」

「また、単独での登山の場合は、いつからいつまで、どこの山にどんなルートで行くのかを明記した計画書を、ご家族に必ず渡してください。そうすれば、帰りを待つ家族もいたずらに不安になることもないはずです。万が一、遭難したとしてもご家族から連絡を受けた救助機関がすばやく初動対応に入れます」
――モバイルバッテリーの携行も推奨されています。
「不測の事態に陥って110番通報する時点で、遭難者や同行者のスマートフォンのバッテリー残量が数%しか残っていないということがよくあります。それだと聴取の途中で通話が切れてしまったり、必要な情報を落ち着いて聴き取ったりすることができません。もしものときの通信手段を確保するためにも、必ずモバイルバッテリーの携行をお願いします」
――最後に、遭難を防ぐために登山者が心がけておくべきことを教えてください。
「こういう装備を持っていった方がいい、こういうことをやった方がいいと、各論的にいえることはたくさんあります。ですが、大前提の心構えとして『アクシデントに遭うことを想定しておく』ことが一番大事だと思います」
「車を運転する方で、『自分は交通事故を絶対に起こさない』と断言できる人はいないと思います。なぜなら、人間は判断ミス、動作ミスを必ずするからです。登山も同じです。経験の多い、少ないにかかわらず、誰にでも遭難は起こり得ます。そうした心構えを、まずはもっていただきたい。そうすればおのずと、遭難を回避するための準備や下調べをするようになるのではないでしょうか」